少年負い易く学成り難し
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2011年撮影Munehiko Nagase 永瀬宗彦

ホームページにお越し頂きまして誠にありがとうございます。画家の永瀬宗彦です。

私の出自や来歴はご紹介するほどのことではございません。しかし、私が画歴を重ねる中でお付き合いした方々との出会いは掛替えのないことです。その方々の支えにより、これまでの私の作品が誕生し、私の画業が成り立っています。

そこで何人かのキーパーソンとの出会いをご紹介します。これが私をご理解頂くための便(よすが)となると信じております。

美術集団 / 学生会館の人々 学館本部棟 
People of Artists group "Bijutsu shudan"

私の画業の出発点は自主制作です。そして初めて作品を発表したのは学校のサークル活動でした。

私が学生の頃に所属したのは一風変わった美術サークルでした。入会した時期は1990年代の中頃。その時のメンバーは半ば伝統的にアンディ・ウォーホルに影響を受け、シルクスクリーンを製作する人が多くいました。また、バンドマン等ロケンローラーの人達も目立ちました。BOXと言われる部室では、コアな洋楽が流れ、みなタバコを燻らし、ギターを弾き、講義に出ずに時間を潰したり、夜にはバーボンやウォッカをあおってバカ騒ぎをしていました。そんな雰囲気ですから、美術としては古典的な技法よりも、レディメイドやポップアート、アヴァンギャルド的な発想でアプローチする人達がほとんどでした。製作意欲は一部の人を除くと低く、残念ながら停滞していたように見えました。

しかしながらそれは私の第一印象による一面的な評価でした。そこに集まった人たちは、私を含めて文系の学生。創作に割く時間が短いのは当然です。しかし最も重要なことは、何といっても彼らがみな個性にあふれていたことでした。それはのちに黄金期と呼ばれるほどでした。

サークル内には様々な意見があり、「他人は他人」という風潮がありました。各人の作風は自由でした。しかし発表では厳しい意見も多く、おのずと独立自尊の気概が生まれました。技術と力量こそ見劣りするものでしたが、いわゆる既存の美術とは一線を画した、様々な価値観を反映した独特の展覧会が毎回催されていたのです。

私はたまたま部長を務めましたが、彼らを牽引するのではなく、彼らの個性を邪魔することのないように努めるのが精一杯でした。 同時に、彼らの強い個性は私に向けて鋭く照射して、私自身の個性を、極めて克明に削り出しました。

この時期は私の創作の黎明期です。今も継続するモチーフの多くがこの時期に生まれました。それらのモチーフは、彼らの個性と私の個性との相克、そして個性同士の接触による反発・重合の結果、醸成されたものであると私は考えています。

そのため、私は彼ら自身と、彼らと同じ時間を過ごせた幸運に、今も感謝の念を持っています。同輩の田中、青木、大城、大野、波形、奥野、小堤、来栖、本多、それと先輩 / 後輩の人達、また、アトリエ使用者協議会で交流のあった人達を忘れることは決してないでしょう。

原田煕史先生 
Mr. Hiroshi Harada - ex-professer of university

元大学教授で、音楽、美術をはじめ、演劇や陶芸などあらゆる芸術に造詣の深い方です。その知識量はすさまじく、また常に好奇心旺盛で、底無しの吸収力をお持ちです。芸術に対する論評が卓抜しており、時に切れ味のいい言葉で、あるいは巧みな比喩を用いて、芸術作品を射抜きます。しばしば私はその表現力に舌を巻きます。ある時、池袋のホールでパイプオルガンの演奏を聴いたあと、先生は次のようにおっしゃっていました。

「パイプオルガンの奏者はバレエの一流プリマドンナのようにスッと身体の中心に芯が通っていないといけないんです。そうでないとオルガンに振り回されて演奏がバラけてしまう。大学院を出て少し毛の生えた程度ではやっぱりまだまだですね。」

私は素人なのでその演奏に感心しただけでしたが、先生のこの正鵠を射た評価を聞くと、印象がまったく違ってきました。先生のご意見のすばらしいところは、下手な先入観を持たずに、あるがままを受け止めて率直に打ち出すところです。もちろんそのご意見は、膨大な知識と鑑賞歴に裏打ちされていて説得力に富んでいます。

原田先生は芸術学の講義をなさっていました。その中で私は、音楽学、なかんずくアドルノのそれを紹介して頂きました。この事は私とって大きな収穫であり、一つの転換点となりました。私はそこからアドルノの哲学、社会学、芸術学(音楽論)を読み、進学後はカントの美学とアドルノの芸術論を専ら勉強しました。それによって自身の創作の立脚点を、思想的に基礎付けることができたと感じています。

さて、少し話を戻します。原田先生は浅学の私の卒業論文の指導教授を引き受けて下さいました。そして、卒論指導のあと、学内で行った私の卒業展示にお越し頂き、私の作品に興味を持って頂けました。これが長いお付き合いをするきっかけになりました。

私は学部卒業後も働きながら先生の芸術学の授業に参加しました。時には授業の手伝いをさせて頂きました。先生が退官後も、クラシックコンサートや美術展、演劇などの鑑賞に一緒に出かけています。鳴かず飛ばすの私の創作活動を、先生は長い目で見守って下さっています。

 大野貢先生 故人大野貢先生(メイフラワー号) 
Mr. Mitsugi Ohno - glass blower (1926-1999)

世界一のガラス職人で芸術家でした。クラインボトルの具現化を世界で初めて成し遂げ、またガラスによる芸術作品を多数製作しました。大野先生のガラス作品は、日本の皇居や、スミソニアン博物館にも所蔵されています。日本ではあまり知られていませんが、世界的な名声を得ている日本人の一人なのです。

大野先生はアメリカのカンザス州立大学にお勤めでした。ある時先生は、たまたま私が原画をつとめたポスターを目になさいました。そしてその作品をたいそうお気に入りになりました。さらに、私をご自宅にお招きになりました。そこで3日3晩、私が画家になることを強く勧めてくれたのです。

大野先生はご自身が芸術家であると共に、他の芸術に慧眼をお持ちでした。ご自宅には価値の高い様々な美術品が集まっていました。その中にあって、私の才能を過剰と思えるくらい評価して頂き、曰く、私の作品に「エキサイトしている」とおっしゃっていました。私はその時、自分の才能に半信半疑でしたが、その後、絵筆をおかずに作家活動を続けているのは、大野先生のそういった情熱的な薫陶を受けたからなのです。

谷合浩典先生
Mr. Hironori Taniai - Painting Artist

一水会に所属する画家の先生です。油彩でウェットアンドウェットの技法を使い、素晴らしく筆の冴えた、シンプルで力強い具象画を描く方です。

1999年頃から1年ほどの間の毎週末、私は知遇を得て谷合浩典先生のアトリエへ通いました。今思えば、その時間は私にとっては「夢のよう」でした。それまで私には絵画制作に没頭できる時間はあまりなかったのですが、谷合先生のアトリエでは思う存分絵のことに取り組めました。そこで私は、キャンバスとモチーフに向かいながら、窓から差し込む陽の光がゆっくりと傾いて、モチーフの陰影が静かに変遷してゆくのを感じました。その様子は、幻想的な記憶となって今も私の中に残っています。

そして私は、谷合先生の絵画のエッセンスを盗ませて頂きました。今はアトリエを訪ねることはないですが、私の作品の中には谷合先生のエッセンスが多分に含まれています。レッスン料を払っていなかったのに、黙って盗ませていた先生は、とても心の広い方だと思います。

ギャラリー・アート・ポイント 撮影2004年岡田春宣さん
Mr. Harunobu Okada - Art director, ex-owner of "Gallery art point"

ギャラリー・アート・ポイントの元オーナーです。その後、月光荘のギャラリーでアートディレクターをお勤めです。

私が友人と共に飛び込みで岡田さんのアートポイントを訪ねた際、快く二人展開催を引き受けてくれました。それから、私の個展を開かせてくれたり、グループ展に招待して頂いたりしました。さらに、啓祐堂のSさんをご紹介下さいました。

二人展の前、岡田さんは体調を崩されました。その時、岡田さんは私にギャラリーの使用料を前倒しで払ってもらいたい、というご依頼をなさいました。私は体調のことは知りませんでしたが、怪訝に思いながらもさっそく支払いをしました。後で岡田さんから聞いた話では、その時のお金が何かしら役に立ったらしいのです。そしてそのことを後に岡田さんから感謝して頂きました。私としても私の行為が一助になったことは本懐です。絵画とは直接関係ない話ですが、絵画を通じて信頼関係が築けたことは、大変うれしかったです。

岡田さんはかつて波乱万丈の人生を送られていますが、そのアートに対する情熱は他に類を見ない、並々ならぬものです。そして、既存のアートの枠に囚われずに、新しいアートを発見しようとする姿勢は心を打ちます。彼の支持を得ていることは私にとって大きな励みになっているのです。

啓祐堂 2010年撮影杉本さん 
Mr.Sugimoto - Owner of Keiyudoh and its gallery

港区高輪にある書肆 啓祐堂(けいゆうどう)のオーナーです。おおらかな方でとても交友関係が広く、また多趣味でいらっしゃいます。近年はカメラに御熱心で、日に日に写真の腕を上げてらっしゃいます。

私は、岡田さんのご紹介でこの古書店に出入りするようになりました。自由で遠慮の要らない雰囲気は、私にとっても居心地がよく、ありがたいものです。 そして、思いも寄らない人たちと交友関係を結ぶことが出来るようになりました。そういった出会いによって、私は創作意欲を強く刺激されています。

杉本さんには、併設するギャラリーにて、4度も個展にお声かけいただいています。中でも「変身」シリーズを展示させて頂けた2010年8月の個展は、私にとって感慨深いものでした。私は、同シリーズを大好きなのですが、テーマが重く暗澹としているので、人目に晒せる作品ではないと諦めていました。そういった作品でも、啓祐堂では美術作品として扱って頂けました。それは、ひとえに杉本さんの広いお心によるものだと考えています。(啓祐堂は2014年10月に惜しまれながら閉店しました。)


まとめ
もちろん上記以外にも書き切れないほどの様々な出会いがありました。私は都度お会い出来た方のご支持とご期待によって、この細く拙い画業を続けさせて頂いています。そして、そういった方々に感謝しながら、その期待を裏切らないように、創作を続けてゆく所存でございます。今後ともよろしくお取り計らいのほどお願い申し上げます。















 

2013/09/10 Art works in the "Ars longa vita brevis" created by Nagase Munehiko. All rights reserved.

 


 

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